ボートレーサーの妻を支えて。ボクは主夫歴23年! 第1話

ボートレーサーの妻を支えて。ボクは主夫歴23年! 第1話

福岡市に住む日高邦博(ひだかくにひろ)さん(57歳)の肩書きは「主夫」。ボートレーサー(競艇選手)として第一線で活躍する妻に代わって20年以上、家事や育児をこなし、今年22歳と20歳になる2人の娘を育ててきました。
「男性は外で働き、家を守るのは女性」。そんな風潮がまだまだ根強い時代、妻の出産を機に家庭に入ることを決めた日高さん。どんなこともポジティブにとらえて笑いに変える、根っから明るい日高さんのこれまでの日常や、主夫を通して実感してきた子育てへの思いなどについて、2話にわたってご紹介します。

長女の出産を機に、仕事を辞めて主夫業へ


学生時代の同級生だった妻の逸子(いつこ)さんと34歳で結婚。その翌年に長女が産まれると、日高さんは仕事を辞めて主夫になることを決めました。

日高さん:
「23歳で競艇の世界に入った妻は常々、『結婚後もレーサーを続けたい』と言っていましたし、結婚した頃は最も脂ののった時期でした。当時、僕はごく普通のサラリーマン。彼女は、全レーサーの中でもわずか20%しかなれないA1級で活躍する選手。収入の格差は比べものになりません。そして、お互いの実家も遠い。となると、僕が仕事を辞めるのは当然の流れで…。それに、学生時代から僕の方が彼女にぞっこんだったこともあり、彼女にはなかなか逆らえなかったりして(笑)。惚れた弱みですね」

経験がないだけに、「主夫」への抵抗もなく

逸子さんとの結婚までの経緯や主夫になってのくらしなどを描いた著書
『逸子さん、僕が主夫します!』(中日新聞社)。

家事や育児は女性がやるのが一般的と考えられていた当時、「主夫」になることへの抵抗はなかったのでしょうか?

日高さん:
「抵抗するほど、僕は家事や育児のことを知らなかったんですね。つまり、自分にとってはまったく未知な世界だったわけです。今思うと、その時点で少しでも家事や育児の大変さを理解していたら、専業主夫にはなっていなかったかもしれません。
結婚当初は仕事の都合で妻は福岡、僕は東京で暮らしていましたが、子どもが生まれるタイミングで、妻以外は縁もゆかりもない福岡へやって来て、同居を始めました」

妻とは一切連絡ができない日々

妻の逸子さんは、57歳になる今も現役のA1選手。
競艇界の「グレートマザー」と呼ばれるほどの存在です。

そのようにして始まった、日高さんのドキドキの主夫生活でしたが…。

日高さん:
「妻は子育てに関して、『母乳で育てること』『布おむつを使うこと』の2点にこだわっていました。と言っても、全国各地のレース場に出場している彼女が家にいれるのは1カ月で5日〜8日。つまり、彼女のこだわりを実践するのは僕なわけです(笑)。冷凍しておいた母乳をその都度、解凍しながら飲ませたり、汚れた布おむつを一生懸命洗ったり。そんな時にふと…今思えば、まったくくだらない男のプライドですが…『俺はこんなことをやっていていいのか』と思うことがあるんですね。家庭に入ってしまった時、自分はサラリーマン時代のように社会とのつながりが持てない。そんな不安に襲われてしまうと、『こういうことがいつまで続くんだろう』と、さらにネガティブになったりして。

ちなみに、ボートレースは公営ギャンブルなので、不正を防ぐために妻は仕事中、家族であっても外部との接触は一切禁止。当然、僕からも携帯電話やメールなどで彼女に連絡することはできません」

子育てで困ったこと、大変だったこと

日高さんの育児デビュー当時の姿。

知り合いのいない福岡で妻に連絡もできず、ただただ子育てに専念。そんな日々は日高さんにとって、かなり大変な時期だったことは間違いありません。

日高さん:
「一番困ったのは子どもの体調不良。発熱したとかウンチが出ないとか、湿疹が出てしまったとか、当初はそういうトラブルの際に周りに相談できる人もいなくて、結構しんどかったですね。
子育ての困り事は夫婦で分かち合えるのが理想ですし、『どうしよう、困ったね』とか『病院に連れて行ったほうがいいかもね』とか、そういった不安や悩みを言い合える相手がそばにいるだけで、とても気持ちが軽くなるもの。それが叶わない辛さは大きかったです。

それと、わが家は妻が普段いない上にほぼ連絡が取れない『ワンオペ育児』。もしも僕が倒れたとしても、気付いてくれるのは子どもたちだけなんです。だから、娘が4歳ぐらいになったころから、119番の掛け方を教えました。難しいことは覚えられないから、『パパがしんでます』って言いなさいってね(笑)。でも、それが子どもたちを守ることにもつながるから、練習もさせました。

家事で大変だったのは裁縫。保育園とか小学校に入ると、体操着にワッペンやゼッケンをつけたり、手提げ袋を用意したりと、何かと縫いものをしなきゃいけないじゃないですか。掃除とか料理は完璧にできなくても『まぁいいか』で済みますが、裁縫となると見た目もあるし、そういうわけにはいきません(笑)。

ちなみに僕は娘たちが小学校から高校まで、15年間毎日お弁当を作ったんですよ。今思えば、当時はキャラ弁なんてものもなく、お弁当にそこまで凝る必要もない時代だったことが、唯一の救いでした(笑)」

妻が申し込んだ地域の育児講座へ


子育てに孤軍奮闘する中、日高さんが今でもありがたいと感じているのが、地域で開催されていた育児講座に1年間、通ったことでした。

日高さん:
「長女が生後3カ月の頃、公民館で開催される育児講座に、妻が僕の名前で申し込んでいたんです。25人の若いお母さんの中に男は僕1人。最初はもちろん恥ずかしいし、身の置き所がないような感じがしましたが、すぐに打ち解けることができました。今のように“イクメン”とか“カジダン”なんて言葉もない時代ですから、最初はワケありと思われていたようですが(笑)、回を重ねるごとに『一生懸命に育児をしている同じ仲間』と見てくれるようになりました。おかげでたくさんのママ友もできましたよ」

大いに助けられたママ友つながり

(写真上)長女1歳半、(写真下)次女2歳のころ。

日高さん:
「育児講座のお母さんたちは、すでに1~2人育てている方もいたので、僕にとって“生きた百科事典”。子育てで困ったことや、わからないことは何でも相談していました。みなさんがありとあらゆることを教えてくれて、とても頼りになりました。しかも同じ地域に住んでいる方ばかりですから、『ここの病院がいい』とか、『この店にこんなものが売っているわよ』とか、身近な情報をこと細かに教えてくれる。

インターネットや雑誌である程度の知識を得ることはできますが、同じ立場の方と話のキャッチボールができることはとても大切なことだと思います。
育児講座に関しては、妻にもとても感謝しています。子育てに全力を注げない妻が、自分に代わって僕をサポートしてくれる存在を、彼女なりに考えてくれたんだと思っています」

思春期の娘への対応は母親に

「妻は、子どもたちと一緒に居られる時間は短いけれど、
会える時にたくさん愛情を注いでいます」と日高さん。

そんなこんなで、なんとか子育ても板についてきた日高さん。けれどもやはり、気になるのは父親として思春期にさしかかる娘とどう接するか、です。

日高さん:
「そこはやはり、男の僕にはどうすることもできなくて…。
娘が年頃になると、たまに帰ってきた妻が、限られた時間の中でことあるごとにいろいろな話をして聞かせていたようです。
僕には、娘たちに生理が始まったら『大人の女性になって体を守るために大切なことなんだよ』と言って、ケーキを買ってお祝いしてやってほしいと。間違っても、『困ったね』とか『大変だね』とかいうネガティブな言葉はかけないでほしいとも言われました。何かあった時、僕に話しづらいことを相談できる同級生のお母さんの連絡先なんかも伝えていたようです」

22歳と20歳になる2人の娘さんは関東の大学に在籍中ということで、現在は月の大半は“一人暮らし”の日高さん。
次回は、ご自身の経験を経て、今、子育てをしているお母さんたちへ伝えたいメッセージなどについてお聞きします。

profile

日高邦博(ひだかくにひろ)さん

日高邦博(ひだかくにひろ)さん

1961年生まれ。23年にわたる主夫業のかたわら、男の家事や育児などに関して各地で講演を行う。ボートレーサーである妻の日高逸子さんは、女性ながら数少ないA1級で活躍中。著書に『逸子さん、僕が主夫します!』(中日新聞社)。